「さよなら渓谷」、さよなら理解

アマゾンプライムで、「さよなら渓谷」を観ました。この監督が、新聞のコラムで相模原事件のことに触れて、「簡単に理解してはいけない、でも特別視してもいけない」と言っていました。多分、映画もその観点で作られたのでしょう。
事件があるとすぐ、なぜ、とか考えます。みんな最もらしいことを言います。でも、人の心理と行動は、そんな簡単に理解できるものではない、ということですね。と言うわけで「さよなら渓谷」を見てみました。
ほんとにわかりません。まず、主人公の女性のような過酷な被害に遭ったことがないのです。次に集団でレイプなどして、なにが楽しいのか、という男の気持ちがとても理解できません。女性にとって致命的な傷を負わされた相手への憎しみもわかりません。
でも、ふと思いました。従軍慰安婦の哀しみや苦しみを、男は理解できないでしょう、ということ。金で済まそうとすると、ますます悲しい。じゃあ、この映画の男のように人生かけて償うのか。でも、償っているようで、男は自分の罪から逃げているようでもあるし。
もう一つ、体育系の男が事件の中心になっているのが気になりました。いわゆるマッチョの性犯罪。これが嫌だった。だから対極に文科系の夫が暴力を振るう、という形なのかな。井浦新って、文科系代表、みたいだし。
キャストはみんなドンピシャでしたね。真木よう子の解らなさは、すごくよかった。自分が自分の世界で、わかったような気になる、というのがいちばん怖いのだ、と、しみじみ思う映画でした。この映画、解らないから見る価値ありです。

語り部・市原悦子

すごい人だなー。「家政婦は見た」のころから、どういう演技してるんだ、と不思議だった。なんだかつかめない。雲のようにふわふわしている。このごろ出てこないな、という矢先、出てきた。
NHKの鶴瓶の「家族に乾杯」という番組。で、鶴瓶と、アポなしで個人の御宅に行ってインタビューする。市原悦子の希望は、一人暮らしの高齢者を訪ねたい、とのこと。
もちろん、事前にスタッフと打ち合わせをしているだろうから、突然の発言ではないだろう。ただ、番組のタイトルは「家族」なんだけど。で、彼女自身がご主人をなくして、つまり「家族」をなくした、というわけ。
そうだ、家族って、形が変わるんだなー、と思った。そんなこと当たり前なのに、そこにあるときはいつまでも続く、と思っている。だから、形が変わると、人はうろたえ落ち込む。でも、それは分かっていたことのはず。
独居とか一人暮らしとか、このごろ耳にするけれど、みんなだれかと一緒だった。はじめから一人じゃない。時の流れで、あるいはアクシデントで形が変わり一人になる。家族という言葉が、その変化のすべてをいうのならそれも家族。
で、市原悦子という語り部に導かれて、家族の物語がひもとかれていく。みんな思い出の写真や手紙、植物を披露する。それも家族のかたち。そうだ、市原悦子は、語り部なのだ。日本昔ばなしのときから、家政婦のときも。
わかった、わかった。彼女のあのセリフ回しは、語り部独特のものだ。日本の伝統芸だ。市原悦子は、職人だ。いつも同じスピードで、同じトーンで、ぶれない。それ、難しいに違いない。すごい、市原悦子という人。http://www.xn--ldry53fcyatvt73b.com/